琵琶湖の北の隠れ里、菅浦 [家]
白洲正子『かくれ里』より引用
=菅浦(すがうら)は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(つづらお)崎という絵図で見るとおり、竹生島は目と鼻の間で、街道からは遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である。=
菅浦(すがうら)は、1971年までは、自動車が通じる道も無かった集落で、平安・鎌倉期の文献に記録が残る程歴史ある集落です。半農半漁の村ですが、天皇・貴族に食料を献じてきた誇りや「惣」の掟をつくり自治のために隣村と戦ってきた歴史をもっています。
また須賀神社の石段の上のところは神域として現在でも土足が禁じられています。小さな村にも大きな誇りがあります。石組みも綺麗に積まれています。
湖ではオオバンがゆったり泳いでいました。
=菅浦(すがうら)は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(つづらお)崎という絵図で見るとおり、竹生島は目と鼻の間で、街道からは遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である。=
菅浦(すがうら)は、1971年までは、自動車が通じる道も無かった集落で、平安・鎌倉期の文献に記録が残る程歴史ある集落です。半農半漁の村ですが、天皇・貴族に食料を献じてきた誇りや「惣」の掟をつくり自治のために隣村と戦ってきた歴史をもっています。
また須賀神社の石段の上のところは神域として現在でも土足が禁じられています。小さな村にも大きな誇りがあります。石組みも綺麗に積まれています。
湖ではオオバンがゆったり泳いでいました。
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